4月16日の朝、パリのノートルダム大聖堂炎上のニュースを見た。
あの炎は一体何を焼いているんだろうか。
足場が燃えているのか。
尖塔が焼け落ちる映像が流れる。
あの尖塔は何でできていたのか。
ヨーロッパの教会は、石で造られているイメージだった。
しかし、あの、ゴシック建築の屋根を支えている骨組みは、木でできていた。
それが、燃えた。
あの炎の勢いを見ると、内部の損壊も激しいのではないかと思われた。
美しいステンドグラスも割れただろうと。
しかし、大きな損害は免れた。
「バラ窓」と呼ばれるステンドグラスは、一部損壊しているものの、ほとんどが無事だという。
聖遺物の「いばらの冠」も運び出されて無事だという。
改修工事のため運び出されていた彫像も多いという。
希望は残った。
私ですら、このニュースはショックだった。
パリは一度だけ訪れたことがある。
ノートルダム大聖堂は、セーヌ川のクルーズで外観を見ただけだ。
パリならば、いつかまた、訪れることができるだろう。そのときにゆっくり見学しよう。そう思っていた。
きっと、このような人が日本にはたくさんいる。
パリは世界中から人が訪れる街。世界の歴史を変える出来事が起こった街。
きっと、世界のあちこちに、この出来事を悲しむ人がたくさんいる。
パリ市民、フランス国民の悲しみはいかばかりか。
カトリック教徒の悲しみはいかばかりか。
宗教的、文化的、歴史的な価値を考えると、日本にあるもので例えようとしても、なかなかうまくいかない。
文化的、歴史的な価値の点では、正倉院が焼けてしまった場合を想像してみる。取り返しのつかない出来事だ。
宗教的に考えるのが一番難しいか。伊勢神宮が焼けてしまったらショックだが……。三種の神器の一つの鏡もともに焼けてしまったら国のあり方に関わってくる。人によっては延暦寺、金剛峰寺、知恩院かもしれない。
土地によっても違うだろう。
先の戦争の空襲により姫路の町が焼かれたとき、 姫路城は焼け残っていた。その姿が希望だったという。
きっとそれぞれの土地に、そういう存在があるのだろう。
鎮火後の大聖堂内部の写真が公開されているが、その姿すら美しい。
十字架と彫像、差し込む光、焼け落ちた屋根の残骸。
それらが希望の姿のように見える。
この聖堂を設計した人物は素晴らしいと思う。
宗教を表現するということの一端を見たように思う。